カミデのブログ

日夜、創作と修行、音楽製作にあけ暮れる、音楽家の生活

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恋が終わるとき

 僕は子供の頃から身体があまり丈夫ではなかったので、病院生活を長くしていました。病院での楽しみといえば本を読むことくらいです。普通の本でしたら時間がたっぷりあるので、一日に2冊くらい読めます。そうすると本代節約のため、おのずと時間のかかる長編、特に行間の少ない純文学を読むことになってきます。このときの生活習慣か、今も本をたくさん読んで睡眠時間もたっぷり9〜10時間くらい(普通の人よりも活動時間が短いので、人間的な成長も遅いのです〜笑)というサイクルが定着しました。

 

 ビクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」もこのときに読みました。ジャン・バルジャンの壮絶な生き方に食い入るように本を読み進めていきました。ただ、第一巻で話が突然、若い人の恋のお話になります。ページ数にして50ページほど、何じゃこりゃ、と思いながらも読み進めていくと、コレがフォンティーヌを不幸に陥れた恋のお話なんですね。

 つい最近、 映画「レ・ミゼラブル」をみました。映画やミュージカルではこの恋のお話の部分は、フォンティーヌの「夢やぶれて」の歌の中で語られることになります。アン・ハサウェイが演じるこの場面は何とも悲壮感にあふれていて、原作では「軽率な恋がまねいた悲劇」という感じで、あまり共感できなかったですが(読んだときが若かったせいもあるのでしょうかね)、映画でのこのシーンはもう泣けてきます。女の人は嘘泣きが比較的、簡単できるような気がするんです。でも、本気泣きというのはそうそうできるもんではありません。本気泣きの顔はちょっとコワイです(経験談...スミマセン)。丁度、この映画のアン・ハサウェイの感じで、悲壮感いっぱいです。

 

 物語の中では、その後、ジャン・バルジャンに引き取られて大切に育てられたフォンティーヌの娘、コゼットが恋に落ちます。相手は革命計画の真っ最中に女にうつつを抜かす「ろくでなし」(と僕は思っています)、マリウスです。挙げ句の果てに自分に気のあるとわかっている(わからんようでは天然ぼけ)、革命の同士、エポニーヌを利用してコゼットの居所を突き止めたり、革命の最中にも頭の中はもう「コゼット、コゼット...」ですわ。青年の存在を知ったジャン・バルジャンは旅支度を始めます。自分の正体を知られる恐怖と娘を奪われる恐怖からです。しかし、障害が多い恋ほど燃えるといいますが、まさにコレはその典型ですね。

 

 誰でも経験があるかもしれませんが、最初にぱーん!とスパークするものがあって、だんだん盛り上がっていって、お互いの気持ちが最高潮に達して、そこからは...実は、このあたりに何の障害もないと恋は終わるのです。

 

 「まあ、今日はカレー作ったんで、晩ご飯でも食べていってー」なんて、彼女の家に行っていわれたりしますね。もう、相手の家族には完全に承認されていて、何の障害もない状態。彼女も親としゃべっているトーン、自分の時と雰囲気が違う、なんか違う、なんか緩い...。で、この瞬間に恋は死んでます。

 

 その代わりに「家族」という新しいものが生まれているのです。

 

 家族の一員になって認められて、その空間に溶け込んで楽しめるか、喜びと感じられるかによって、そこからの成り行きが変わってくるのです。「家族」の一員となったときから、恋は死に新しい「絆」が生まれるのです。この部分を望んでいない場合は、あっさり、その恋は終わってしまうのです。

 

 もし、ジャン・バルジャンがマリウスに「今日はカレー作ったんで、晩ご飯でも食べていってー」といっていたら、さすがにマリウスも「こんな事をしている場合ではない、僕には革命という使命があるんだ!」と思ったに違いない。

  世間の若い娘さんを持つお父さん、お母さん、もし娘さんが「ろくでなし」とつきあっている気配を感じたら、むやみに反対や説教をせずに、「まあ、今日はカレー作ったんで、晩ご飯でも食べていってー」とお家に招き入れましょう。「ろくでなし」にとって、これほどの嫌がらせはないですから。

 

最後まで読んでくれたあなたへ

 

野暮ったいものなかに

ほんとうに大切なものが隠れていますよ

 

 

5月13日、ピアノアルバム 2タイトル同時発売です!!!