悲しいから涙が出るのではなく、涙が出るから悲しい?
皆様、新年あけましておめでとうございます
2015年に入り、新しくブログを開設いたしました。
2014年の半ばに、ちょっとしたアクシデントで右肩の肩甲骨がずれてしまって、ずれてしまったことを気づかずに、さらに過酷な負荷を肩にかけてしまったので、秋くらいからはまったくアコーディオンが弾けなくなりました。とりあえず、ピアノは弾けたので諸々の仕事は続けることができたのですが、一日のサイクル、つまりアコーディオンを弾くという日課が無くなってしまうと、そこにぽっかりと穴が開いてしまい、いったん空白ができると一日全体が伸びたゴムのようにゆるゆるとたるんでいって、分散した集中力が行き場を失って、ネット対戦ゲームの鬼になってしまいました。
通っていた整骨院のおかげで、年末くらいから肩の痛みも取れ始め、徐々にアコーディオンも弾けるようになり、ネット対戦ゲームのキャラクターもほとんど死んでしまい(死んだらゲームオーバーなので)、現実世界へと引き戻されてもとのサイクルに戻ってきました。現時点では80%くらいの回復ですかね。時々痛みはあります(一番ひどいときは、アコ〜ディオンを持つだけで数分かかりました)が、演奏を中断するほどのものでもなくなってきました。日々のリズムを取り戻せて、健康であることのありがたみを実感しているところです。
さて、ちょっと話は変わりますが、「悲しいから涙が出るのではなく、涙が出るから悲しい」という冗談のような話が、最近の脳科学や認知心理学で真実であることが明らかになったようです。普通は悲しくて涙が出る、怒りを感じて身震いする、というかんじで心から身体の反応と思うのですが、実際は逆のようなのです。
1884年、ハーバード大学で教鞭を執るウイリアム・ジェームズが「感情とは何か」という論文を書き、「マインド」という哲学の雑誌(実験心理学の学術雑誌創刊は1887年のため)に掲載され、「身体的変化は感情によってひきおこされるのではなく、身体的変化を脳が関知して理由づけする」と発表後、ジェームズ=ランゲの理論と呼ばれるようになってからも科学者たちが実験検証をして、現在では脳をスキャンするなどして、これらの身体と感情の一連の動きが目で確認できるようになったそうです。
かんがえてみれば、ものすごく嫌な思いや、悲しい思いをしたときには、心がついて行けなくてとっさに反応できませんよね。でも、一度経験した嫌な出来事とか、悲しい出来事によく似た出来事には、すぐ「身体」が反応してしまう。
過去に経験によくにた嫌な出来事
-->身体が反応
-->脳が応じて選択 -->悲しくなる or 怒る
というプロセスのようですね。わかりやすくするために単純に書いていますが、実際にはもっと複雑で難解なんでしょうね。
なぜこんな話をしたかといいますと、自分の身体が思いどおりならなくなってしまったとき、いかに自分の感情が身体的なものに左右されているかがよくわかったからです。演奏をしようとしたときに常に攻撃的な痛みに悩まされて、だんだんイライラしてきて、音楽そのものが怒りややるせなさに直結するようになってきました。
演奏をされる方はよくわかると思いますが、調子よく演奏できているときは、音楽の幻の翼?のようなものが肩甲骨のうしろあたりから出ていて、音の世界を羽ばたいているかのような気持ちになります。これが数小節ごとにバキボキと痛みを発するものですから、地べたを這いつくばって演奏している気分になります。まさに「健全な身体には健全な魂が宿る」を実感しました。こういうことをいうと、「では身体に障害があると、心にも障害が出るのか!」という突っ込み、煽り投稿をされそう(中高年の方に多い)なので、先に言っておきます。
「身体的に障害あるから健全な身体ではないと思う、あなたがおかしい」のです、以上。
ここで言っているのはあくまで、個人個人のベーシックな状態からズレた身体のことを言っているのです。
話を元に戻しますと、私たちは日々、身体から送られる様々な信号に心が反応しています。喜びも悲しみも、実は身体が先に関知しているということを知れば、自分自身の身体に対するケアにもっと深く関心を持てるのではないでしょうか。
規則正しい生活、正しい食事、適度な運動、をすることによって身体を保ち、心を保つ。そうすることで、ゆがんだレンズでものを見ず、人のこころにまっすぐに語りかけることができると思うのです。
2014年の反省から、2015年は、身体をきちんと保ち、まっすぐにものを作っていこうと思います。
それでは皆様、本年もよろしくお願いいたします。
カミデタカシ